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【支援のお願い】大里青年会がクラウドファンディングをはじめています

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私が地域おこし協力隊時代の3年間で入り込んだ地域が大里でした。

大里は1961年の3村の合併で消滅したかつての高嶺村にあり大里地区が村の中心部でした。若い世代から上の世代が生活し、農村でありながらも有識者を数多く輩出しており、生活文化や公民館行事を大里の礎として築いてきました。

現在は糸満市大里地区として歩んでいますが1970年代頃から始まった職業や価値観の多様化により市内都市部や市外への移住者が増え、これまで培ってきた伝統を維持継続することが困難になりつつあります。

そんな大里青年会が今年、40周年を迎え県内各地でさまざまな活動を行っています。そのひとつがクラウドファンディングによる担い手不足を解消するプロジェクトです。こちらの記事で「大里ってこんなところなんだ」と知っていただき、応援していただけると嬉しいです。

40年目の節目!PR映像を制作し若い世代に繋げていきたい

大里青年会のプロジェクトページ
「大里エイサー」40年目の節目!PR映像を制作し若い世代に繋げていきたい。

「大里エイサー」40年目の節目!PR映像を制作し若い世代に繋げていきたい | FAAVO那覇
沖縄伝統芸能「エイサー」の魅力や青年会の活動を知ってもらえるような映像を制作し、後世に残していきたい!はいさい!皆さま!はじめまして!糸満市大里青年会会長を務めている「上原だいき」と申します。よろしくお願

大里ってこんなところ

大里の歴史

字大里のある高嶺村(たかみねそん)はかつて沖縄県(戦後は琉球政府)島尻郡にあった村で、現在の糸満市中部に位置します。1908年の島嶼町村制施行で高嶺間切から高嶺村となりました。

1961年に北に隣接する(旧)糸満町・兼城村と南に隣接する三和村と合併し(新)糸満町となり消滅。現在は旧村内一帯を高嶺地域として糸満市の一地域として位置づけられています。高嶺村の中心部は字大里でした(ちなみに2006年に南城市に合併された旧大里村の大里とは別です)。

地名の由来は諸説ありますが12世紀ごろから17世紀初頭にかけて謡われた歌謡を集めた『おもろさうし』にはすでに「大さと」と記されています。
また18世紀に琉球王府の正史として編纂された『球陽』巻16には、元々大里と称していた村が屋古(やこ)と名称を改めたが、それ以来人民が苦しむようになったうえ、屋古が「厄」に通じ、響きも良くないので、旧名の大里村に改称。

『糸満市史資料編13 村落資料-旧高嶺村編-第三章 大里 第1節 現況2参照』

大里にあるもの

大里には南山城跡があります。南山城は北山、中山と並んで、琉球三山時代(14、15世紀)に島尻一帯に勢力を広げていた南山王が拠点としていたグスクです。

『明実録』等の文献によれば、山南王は承察度(ウフサトゥ)・汪応祖(ヤフス)・他魯毎(タルマイ)の三代にわたり、中国(当時は明)に使節を派遣して交易を行ったとあります。島尻大里城、高嶺城、高嶺大里城とも呼ばれることがあり、現在は高嶺小学校敷地内の遺構が糸満市指定史跡となっています。

『糸満市史資料編13 村落資料-旧高嶺村編-第三章 大里 第2節 あゆみ1参照131ページ』

大里には憩いの場所「嘉手志川」があります。 嘉手志川 という呼称が大里部落民に周知されるようになったのは昭和の半ば以降ではないかと言われています。大里部落民は「ウフガー」「カテシガー」と呼んでいます。

 戦前から戦後の昭和三十年代ごろまでは部落民のほとんどが農業に従事していました。夕方、畑から帰ると夏場には大里の男も女もウフガーで一日の汗を流していたそうです。湧き水から流れに沿って右手に大きさ1.6メートルほどのコンクリートの囲いを設けて、女性の水浴び場ともされていました。
 また、昭和36年(1961)に簡易水道が設置されるまで、生活用水の水源地としてウフガー、ユビガー、アクガーの3か所が主に使われており、家に一番近い所から汲んできて水瓶に貯めて使っていました。屋敷内にチンガー(掘り抜き井戸)を設けた家もありましたが、洗濯物等は直接カー(井泉)に持って行って洗っていたそうです。

『大里字誌 第八章生活 第二節生活 五参照542ページ』
『糸満市史資料編13 村落資料-旧高嶺村編- 第三章 大里 第4節村落組織と活動 5.簡易水道参照145ページ』

大里青年会のエイサーとは

沖縄のエイサーは1600年代に念仏踊りとして各地に広まりました。旧盆(旧暦の7月13日~15日)に行われる先祖供養を目的とした伝統芸能です。エイサーには役割が決められておりこれらで結成され躍動感あるエイサーを披露します。

  • 地域名が記された5m近い旗を持ち練り歩く旗頭(はたがしら)
  • 羽織を着飾り、大小の太鼓を持って踊るテークウチ(太鼓打ち)
  • クンジーと呼ばれる浴衣を着るモーヤー(手踊り)
  • 三線を弾き、歌を唄う地謡(じうたい)
  • 顔を白塗りにし、道化師を演じるチョンダラー(京太郎)
  • 演舞の始まりにパーランクーやモーヤー、ざんめいを誘導するメーモーイ

集落を練り歩き演武を行う大里青年会のエイサーは雄々しい叫び声と大太鼓や小太鼓のバチさばきが特徴です。また、そんな彼らを見守るかのように後ろでしっとりとこねり手を披露する手踊りの女性たちや、観客の子どもが泣きじゃくっていても、うろたえない白塗りのチョンダラーは大里ではザンメイと呼ばれ、満月の下でおどける彼らは会場に笑いと歓声を呼んでいます。

地域に必要なのは「遠くを見つつ、近くを見直す」

大里青年会の全盛期は50名以上の青年会会員(18歳~25歳)が所属していました。年々、会員数が減少し、現在は15名ほどです。そのためOBOG、高校生にも協力してもらいながら「大里エイサー」に取り組んでいます。

自治会内の組織である青年会は、現代の自治会不要論に通ずるところがあります。加入が必須ではないがメリットやデメリットで判断するのではなく、共助の精神で地域を支えていこうというものです。

地域の風物詩でもある大里青年会によるエイサー。エイサーに限らず記録に残すことは必須だと私は思っています。「あの日、あの時、あの場所で、あのメンバーでやった」ということが文化になり歴史になるからです。記録に残すのは何でもいい。写真でも動画でも文章でも。何かしらで残していきたい。

政治への関心が低下していると聞きます。だけどその前に地域にあるものに関心のある人がどれだけいるのか知らないといけない。ただ「行事に参加するではなく一緒にやっていく」という携わるスタンスが大切です。

沖縄には黄金言葉というものがあります。昔から伝えられてきた教えや教訓のことです。その一つにこんな言葉があります。「慶良間ー見しが、睫毛ー見らん(きらまーみぃしが、まちげーみぃらん)」。

遠くはよく見えるけど、近くが見えていない事への例えです。やっぱり人は羨んでしまう生き物だから周りがよく見えてしまう。自分のことをよく分かっていなくても暮らしていける。でも言葉のとおり遠くばかり見ていると近くのことを見逃してしまう。「あの日、あの時、あの場所で」が知らぬ間に消滅してしまう。だからこそ「遠くを見つつ、近くを見直す」ことが必要です。

現在、地方の集落では空き家、人口減少、超高齢化、そしてエイサーなどの事業継承不足が課題とされています。課題の本質は魅力の不足です。毎年、公にされている魅力度ランキングなんかはただ知っておけばいいと思っています。地域が「なにを魅力とするか」を知っていれば、自然と人は集まり、仕事が生まれ、人々は住まいます。いろんな政策を進めるよりも魅力を知って、学んで、活かして、磨いていくことが最優先ではないでしょうか。

あたたかいご支援ご協力をよろしくお願いいたします

大里青年会のように自分たちを見つめ直し既存の枠にとらわれない取り組みをする人が私は好きです。だから応援したい。最後にプロジェクトページ内にある文章を拝借します。

このままだと、「エイサー」の存続はもちろん、地域の宝である若者の人材育成や「エイサー」という貴重な文化資源がなくなります。これは、私たち以外の「エイサー」を演舞している青年会(団体)の共通の悩みだと思います。
そういった状況の中ではありますが、沖縄県内で先行して青年会のPR映像を作成し、他の青年会のみならず、同じ悩みをもっている団体の一助にもなればと思います。
また、来年以降の「エイサー」の担い手を募集する際の映像資料としても残せ、SNS等でも情報発信が出来るので良いPRになると確信しております。
 ぜひ、皆さまのあたたかいご支援ご協力をよろしくお願いいたします。

大里青年会のプロジェクトページ
「大里エイサー」40年目の節目!PR映像を制作し若い世代に繋げていきたい。

「大里エイサー」40年目の節目!PR映像を制作し若い世代に繋げていきたい | FAAVO那覇
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